アメリカン・コメディ好きの部屋

アメリカのコメディとコメディアンが好きです。時間がある時に更新します。

『プロミシング・ヤング・ウーマン』追記

今日、映画好きの女性の友人と久しぶりに会って、

『プロミシング・ヤング・ウーマン』の話をしました。

友人曰く、「最初の方で主人公がやっていた、

泥酔したフリで持ち帰られるが、シラフに戻って怖がらせる行為。

あんなので、男に対する仕置きとか復讐にはならないよね〜」

要するに、あんなの大して怖くないよね、って事だと思います。

 

実際、映画内で主人公が驚かせたその後をちゃんと描いていたのは、

小柄なクリストファー・ミンツ・プラッセのパートだけ。

描かれてない相手については、観客は当初、

「この後、男を殺すか、ブチのめすかしたんだろうな」

と、勝手に空白を補完して観ていたはずです。

 

しかし、この映画を最後まで観ると、主人公は

男に対抗できるような体格ではない事が分かります。

実際の暴行の被害者も「抵抗すれば良かったのに」などと

言われたりしますが、体格差などで抵抗が無駄な事も多い訳です。

 

おそらく、この映画は、暴行を娯楽として消費したくはないので、

昔から数多く作られてきた「酷い目にあった女性や、その仲間が、

男に復讐をしてスカッとする映画」いわゆる

「レイプ・リベンジ・ムービー」にしたくなかったのだろうと思います。

むしろ、そう言うジャンルの映画だと思わせておいて、

観客を裏切ったのだろうな、と思います。

 

過去の事件の映像を映画で描かなかったのも、

「女性が暴行されるシーン」そのものが、男性にとっては

娯楽として描かれる事が多いので、あえて省いたのだろうな、と。

(この暴行シーンが描かれなかった事で、

「本当に事件があったのだろうか」と書いていた

映画ライターの人がいたそうですが、節穴ですね。

事件が存在しなかったら、主人公が妄想で暴走した事になりますが、

そんなの「夢オチ」と同じような「金返せ」映画になりますよ)

 

この映画が描きたかった事は「復讐を娯楽として消費する」のではなく、

娯楽映画の体裁を取りながら、暴行犯本人には「私刑」ではなく、

ちゃんと「社会的制裁」を与える必要性や、

暴行を隠蔽したり、見逃したりする周囲の人間に、

その罪深さを自覚させたいのでしょう(どちらも現実では難しくとも)。

 

この映画は、分かりやすく復讐(=私刑)に成功しない所が

素晴らしいのだと、そう思います。